はるのねいろ

まめたろうとこまめの成長記録です。

「じぶんでできる子」への葛藤(親業修行中)

保育園の方針は、「自分のことは自分でやろう」。その方針に従って、できそうになっている子は少しずつ先生方の手を離れ、自分でいろんなことに取り組んでいるようです。

 

まめたろうは年齢の割に何でもできるようで、お散歩のときも、ほかの1歳児さんはカートだったりする中、2歳児さんと一緒に歩くグループに入っていました。

 

そして最近では、お着替え、そしてご飯もひとりで食べるグループに。ご飯は1人1テーブルのところに座って、2歳児さんと一緒にひとりで食べているのだそう。

 

「近くに先生がいると甘えちゃうのだけど、離れていると自分でちゃんと食べてくれるし、そのほうが食べ残しや吐き出しもしない」ということだそうです。

 

すごいなあと思うと同時に、甘えたくないのかな?さみしくないかな?と、そんなことを思ってしまう母ちゃん。

 

でも、発達の過程で、どんどんひとりでできることが増えていくわけで、まめたろうはそれが人よりちょっと早いというだけのこと。なかなかやろうとしない、できるようにならないと悩む人もいるだろうに、随分贅沢な悩みなのかな、とも思います。

 

「まめたろうは母ちゃんと二人暮らしになって、さみしいかもしれない。でも、私がまめたろうをかわいそうな子だと思うのは違う気がするし、やめよう。」そう思ったものの、ときどき、「まめたろうはまだ”さみしい”という感情を理解していない、あるいは表現の仕方がわからないだけで、本当はさみしいんじゃないか」と感じてしまいます。

 

週末に祖父母が来てくれるとき、そしてやっぱり父ちゃんが来てくれるときのうれしそうなニコニコ笑顔。母ちゃんと2人になったときの母ちゃんへのべったり。そんなことから、ついそう思ってしまうのです。

 

せめておうちでは、母ちゃんと2人のときはべったりさせてあげよう。そう思うけれど、やっぱりできれば家事をしてしまいたい母ちゃんは、まめたろうが嫌がっても洗濯を干したりしてしまうわけで。

 

自分でできる子になってほしいと思う反面、他の子よりも早く自分でできるようになっていると聞くとドキッとする。つくづく親とは、というか母ちゃんは自分勝手だなぁと思います。

 

ただ、冷静に考えてみれば、もともとまめたろうは自分でいろんなことをしたがる子でした。コップ飲みもスプーンやフォーク、そして箸も、親が教えたわけではなくて、彼自身がやりたがり、やらせてみたらできちゃった、というものばかり。そういう意味では、本当に楽させてもらっています。

 

そして、家事をするときも、彼が一緒にいたいのだったら、まめたろうにも手伝ってもらおうと、洗濯干しや掃除は一緒にできるようになったわけで。

 

 

変な罪悪感を持ったり、変にどちらか一方が譲歩しすぎたりするよりは、お互いの要求をすり合わせて、合意できるところで合意を。もちろん、まめたろう最優先であることは我が家の基本方針なのですが、それも、「なんでもまめたろうのいうことを聞く」ということとイコールではない。

 

まめたろうの生命の危険がないこと、彼が安全であることが第一。第二は、彼が安心して生活を送れていること。この第二の点は、つまりは母ちゃんがのんびり過ごせていることにもつながるわけで。

 

話があっちこっちに行きましたが、変な罪悪感でフィルターをかけていないで、まめたろうは「父ちゃんがいない」からなんでも自分でやろうとしているわけではない、という事実を受けとめればいいだけだ、とそんなことを確認したいと思います。