はるのねいろ

まめたろうとこまめの成長記録です。

カスタネットはまだたたけない(8ヶ月)

こまめはとっても歌が好き、なのですが、音の出るおもちゃも最近は好きな様子。

 

園のクリスマス会でもらった重ねるバケツ(?)を両手に持ち、それらをシンバルのようにたたいて音を出して遊んだりしている。振ると音のなる積み木もお気に入りで、最初はバケツと同じように積み木同士でたたいて音を出していたが、振ると音が鳴ることに気づくと、シャカシャカリンリンと音を鳴らして振るようにもなった。

 

それなら、まめたろうのときにもらった鈴のおもちゃとカスタネットが良さそう!と思って探してみた。見つかったのはカスタネット、鈴のおもちゃもないわけないのですが、どこに行ったのだろう。

 

カスタネットはまだ難しいよねぇ、と思いつつも、こまめの前でたたいてみる。するとこまめは大喜び!欲しそうだったので渡してみると、一生懸命ニコニコとカスタネットを振るこまめ。そうだよねぇ、振ったら音が出るものばかりだったもんねぇ。音が出ないことは疑問に思わないのか、ニコニコとカスタネットを振り続け、ときどきそこら辺のものに当たって音が出る。今のこまめならではの遊び方でした。

 

察する(8ヶ月)

そういえば最初の1年は予防接種がたくさんあるんだった、と、こまめが生まれてから思い出した。仕事があるのなかなかハードなスケジュールだ、と、育休の必要性を感じたのは予防接種が1番多いかもかもしれない。

 

予防接種のための月に1回の通院、3ヶ月検診などの検診、あらかじめ時間の枠が決まっていたりするので、自分の仕事の都合通りには必ずしもいかない。まめたのときも一度熱があって予防接種が受けられなかったこともあり、そうするとさらにスケジュールがずれていくこともある。こまめはありがたいことに、今のところ当初予定通りのスケジュールで進んでいる。

 

そんな、先日の予防接種のときのこと。

 

こまめ、病院に着いた時はのんびりと穏やかそうな顔で過ごしていたのが、名前を呼ばれて診察室に入って先生の顔を見た途端に泣き出した。まだ診察も何もしてないのに、部屋に入ってキョロキョロと不安そうな顔になり、泣く。「え?こ」からすることがわかったの?」とかーさんはびっくり。先生や看護師さんが、「だんだんわかるようになっちゃうんだよねぇ、成長だよねぇ、でもごめんね〜!」と、ニコニコと笑予防接種を進めていった。そ、そうか、成長か。こまめは察したのか。

 

面白いのは、察して泣き、ちくっとされた瞬間に大泣きするのに、わりとそのあとにはすぐにスン、と泣き止み、泣いてないよ?みたきな穏やかな様子に戻る切り替えの速さ。いつも予防接種のときの切り替えは早いのだけど、今回は察し泣きもあったので、よけいに面白かった。

丸いものがすき、投げたがる(8か月)

年始におじいちゃんのお家にいったとき。こまめにとってははじめてのおじいちゃんのお家で、準備してくれていたものの中に丸いボールがあった。まめたろうのときにも用意しておいてくれたものだったのだが、こまめの食いつきがすごかった。その様子を見て、そういえばまめたろうもボール類好きな時があったなぁ、と思い出した。

 

こまめにもボールがあってもいいかもなぁ、と思いつつ、今ある布ボールと、まめたろうに交渉して、こまめが使ってもいいというボールをあげることに。まめたろうが「これならいいよ、こまめにいい大きさだし」と譲ってくれることを嬉しく思いつつ、まああんまり使ってないやつだしね、と思ってみたりする笑。

 

そんな経緯で、こまめは小さいボールを2つ持っている。そしてそれをよく投げる。これ、ボールを投げているだけなら良かったのだけど、積み木とか他のものも投げるときもあり、少し危ないときがある。結構ちゃんとしたフォームで投げるから、意外ととぶ。

 

しかし丸い形って、赤ちゃんを引き寄せる何かがあるのだろうか。まめたろうの地球儀を先日発見してから、こまめはにぃにの部屋に興味津々、というか地球儀に興味津々で、「うわああ〜!」と声を出して、素敵なものがある!という表情で地球儀に向かって突進しようとしていた。笑 にぃにの大切なもののため、にぃにの部屋にはベビーゲートが取り付けられ、今のところこまめの手は届かないのだが。

 

もう少し大きめのボールがあるといいかな?でもそれ投げられると困るな、と色々考えるのも楽しい今日この頃。

名前を呼ぶとにっこりする(7ヶ月)

ハイハイらしきものにチャレンジしようと膝を立て、お尻をあげるしぐさを見せるこまめ。ずり這いと寝返りを駆使して、かなり動くようになってきた。それに伴い、お母さんがいない、誰の姿も見えない、というのとがあると泣くようになってきた。

 

これで困るのが朝の保育園までの車移動だ。朝は道が混んでいるので二、三十分はかかる。お母さんの姿が見えなくなってしまうので、このときこまめが大泣きする確率はかなり高い。歌を歌ってみたりして、お母さんの声が聞こえればだいぶいいかなぁと思ったりもするけど、ダメな時はダメ。

 

先日、同じように泣き始めそうになったとき、「こまめちゃん、かわいこちゃん!」と名前を読んでみた。そうしたら、こまめ、なんとにっこり!自分の名前を読んでくれてるってわかったのかな?と思うような笑顔だった。そのあと、なんだか泣きそうな雰囲気があるたびに、こまめちゃん!と名前を読んでみた。なんと園に着くまで大泣きにならずに済んだ。

 

名前を呼ぶと振り返る、とかはまだないのだけれど、なんとなく名前だなっていうことがわかるのかなぁ。少しずついろんなことがわかるようになってきている過程が見えてきた。

おかあさんがいいープレ後追い期(7ヶ月(

ズリハイでの移動がだいぶスムーズになってきた。ときどきひざを立ててハイハイの体勢をとろうとする様子も見せているので、じきにハイハイになるだろう。つかまり立ちもよくしている。

 

自分での移動がだいぶできるようになってきたのに合わせて、お母さんがいないと泣く、ということも増えてきた気がする。移動ができるということは移動の発着地点が必要になるわけで、それがいわゆる安全基地なわけで。安全基地たる母親の姿が見えないと移動できないよね、なるほどねぇ、と、まめたろうのときには気づかなかった発達の順番(段階)について気づかされた。これがもっと動けるようになったら後追いになるんだろうなぁ。

 

まだ人見知りは特にないけれど、眠いときなどはお母さんを探すことが増えた。寝る前はお母さんじゃないとダメな感じがする。まめたろうもそんな時期があったよなぁ、懐かしいようで、でもこまめなりの歩みもあって。一方で乳児期の1年間は変化が早すぎて、あんまり細かいことは覚えていない。まめたろうの離乳食のことなんて、すっかり忘れている。

こまめ、前進する(7ヶ月)

まめたろうもこまめも大きい方だけど、こまめはまめたろうのときよりも体が軽いからか、ずりはい?をはじめた。

 

ずりはいというか、足の力は使っていなかったので、腕の力だけを使ってほふく前進?みたいな感じで前進していた。こめさんが、柔道の練習にそんなのがあるといってもいた。腕の力が強いんだね。。

 

と、思っていたら、気づくと足の力も使ってずりずりと移動もできるように。方向転換はお手のもの。場所、というか地面の状況?によって、ずりはいにしたり腕の力だけでの前進にしたりと、こまめなりに工夫をしているのがわかる。

 

寝かしつけのときなどもガンガンに蹴ってくるので、にぃにと同様、こまめも足の力は強そうだ。まだ早いと思うのに、立ちたがり、この間は一応つかまり立ちらしきことができてしまった。

 

そのうちはいはいもできそうだし、移動のスピードも早くなってきそう。なんでも触って口に入れて研究する時期なので、部屋の掃除をがんばらなければいけない時期に突入した。

育休の見え方(親業修行中:番外編)

私にとっては育休をとるよりも働いているほうが気持ちの上で楽だから、育休はとらない。そんなことをブログにも以前書いていた。産後、休む権利もあるのと同じように、産後も働く権利だってあるはずだ、それは選べるのだから、選んだっていいはずで、何で休まないの?と言われるのもなんだかもやもやする…というような気持ちがあった。

 

実際に仕事復帰してみて改めて考える機会が何度かあったのだけれど、「考え方は一人ひとり違うってわかっているんだから、育休をなぜとらないのかと疑問に思われるのだって考えてみれば当たり前だよなぁ」と最近は思えるようになってきた。たぶんだけれど、妊娠中のメンタルの不安定さもあった気がする。前回も今回も、産後のホルモンバランスでメンタルが不調になる、ということが私はあまりないみたいなのだけれど、どちらかというと妊娠中のほうが気持ちの不安定さは多かった気がする。そんな不安点な中で、おそらくみなさん心配してなのだけれど、「育休とらなくて大丈夫?」と言われて意固地になっていた部分もある気がする。

 

育休をとらない、と話すと、職場の問題なのかと思われてしまったり、あるいは旦那さんがとらせてくれないのかと思われてしまったりする。実際にはどちらも違っていて、職場では育休は当然とると思われていたし(男性でもわりと普通にとっている職場だったりする)、こめさんに至ってはむしろ私の復職のために育休をとってくれている(もちろんそれだけではないけれど)くらいに理解のある旦那さんなので、なんだか職場とこめさんに申し訳なくもなった。極端な言い方をしてしまえば、育休をとらないというのは私のわがままなのに、そう思われるというのはとんだとばっちりだ。

 

とはいえ、「育休をとらない」という選択をする理由のひとつは、働き方が選べない、ということはあるように思う。変な言い方をするけれど、保育園は基本的には働いていなければ預けることができない。私が育休を選ばない理由の大きな部分は、「子どもと日中二人きり、しかもそれがずっと続く」というのが気持ちの上で難しそうである、という点がある。(こうして書いてみると結構な言い方で、母親失格とか言われそうだな…とか思ってしまったりもする、という内面を構成している社会にも問題が…とかまたいろいろ思うけれど。)だから、今政策で言われている「誰でもいつでも子どもを預けられます」制度が本当に実現するんだったら育休を取ったかもしれないなぁ、と思ったりする。うーん、でもどうだろう…やっぱり働きたいと思うような気もする(笑)。私は仕事を通じて誰かと関わることが好きだから、それがないのはしんどいのかもしれない。私の中の「仕事していたい」気持ちってなんなんだろうなぁ。このあたりは自分では、いまいちよくわからない。

 

以前まめたろうを生んで育てた地域では、まさに「いつでもだれでも子どもを預かります」という場所があった。その場所が、私はとても好きで、大事だった。引っ越すことになったとき、そこの先生たちと会うのが最後になったとき、私にしては珍しく泣いてしまったくらいだった(本当に珍しいことで、こめさんに帰りの車で「めっちゃ泣いてる」と言われたのを覚えている)。家族だけで子育てを抱えることは、とても大変だ。「いつでも頼ってくれていいんですよ」と言ってくれたのを今でも覚えている。困ったらあの場所がある、と思えたことは、まめたろうとの向き合い方をずいぶん柔らかいものにしてくれたように思う。

 

働くことの対価としてでないと子どもを専門家に預けられない、働かないなら家族だけで3歳までの子育てをなんとか乗り越えなければならない。それが当たり前の社会だから「子育て罰」なんてひどい言葉も出てきてしまう。親が元気で子育てするためにも、子どもを柔らかい気持ちで見守っていける親であるためにも、子育てを親や家族だけに任せるというのは違う、と思う。