はるのねいろ

まめたろうとこまめの成長記録です。

育休の見え方(親業修行中:番外編)

私にとっては育休をとるよりも働いているほうが気持ちの上で楽だから、育休はとらない。そんなことをブログにも以前書いていた。産後、休む権利もあるのと同じように、産後も働く権利だってあるはずだ、それは選べるのだから、選んだっていいはずで、何で休まないの?と言われるのもなんだかもやもやする…というような気持ちがあった。

 

実際に仕事復帰してみて改めて考える機会が何度かあったのだけれど、「考え方は一人ひとり違うってわかっているんだから、育休をなぜとらないのかと疑問に思われるのだって考えてみれば当たり前だよなぁ」と最近は思えるようになってきた。たぶんだけれど、妊娠中のメンタルの不安定さもあった気がする。前回も今回も、産後のホルモンバランスでメンタルが不調になる、ということが私はあまりないみたいなのだけれど、どちらかというと妊娠中のほうが気持ちの不安定さは多かった気がする。そんな不安点な中で、おそらくみなさん心配してなのだけれど、「育休とらなくて大丈夫?」と言われて意固地になっていた部分もある気がする。

 

育休をとらない、と話すと、職場の問題なのかと思われてしまったり、あるいは旦那さんがとらせてくれないのかと思われてしまったりする。実際にはどちらも違っていて、職場では育休は当然とると思われていたし(男性でもわりと普通にとっている職場だったりする)、こめさんに至ってはむしろ私の復職のために育休をとってくれている(もちろんそれだけではないけれど)くらいに理解のある旦那さんなので、なんだか職場とこめさんに申し訳なくもなった。極端な言い方をしてしまえば、育休をとらないというのは私のわがままなのに、そう思われるというのはとんだとばっちりだ。

 

とはいえ、「育休をとらない」という選択をする理由のひとつは、働き方が選べない、ということはあるように思う。変な言い方をするけれど、保育園は基本的には働いていなければ預けることができない。私が育休を選ばない理由の大きな部分は、「子どもと日中二人きり、しかもそれがずっと続く」というのが気持ちの上で難しそうである、という点がある。(こうして書いてみると結構な言い方で、母親失格とか言われそうだな…とか思ってしまったりもする、という内面を構成している社会にも問題が…とかまたいろいろ思うけれど。)だから、今政策で言われている「誰でもいつでも子どもを預けられます」制度が本当に実現するんだったら育休を取ったかもしれないなぁ、と思ったりする。うーん、でもどうだろう…やっぱり働きたいと思うような気もする(笑)。私は仕事を通じて誰かと関わることが好きだから、それがないのはしんどいのかもしれない。私の中の「仕事していたい」気持ちってなんなんだろうなぁ。このあたりは自分では、いまいちよくわからない。

 

以前まめたろうを生んで育てた地域では、まさに「いつでもだれでも子どもを預かります」という場所があった。その場所が、私はとても好きで、大事だった。引っ越すことになったとき、そこの先生たちと会うのが最後になったとき、私にしては珍しく泣いてしまったくらいだった(本当に珍しいことで、こめさんに帰りの車で「めっちゃ泣いてる」と言われたのを覚えている)。家族だけで子育てを抱えることは、とても大変だ。「いつでも頼ってくれていいんですよ」と言ってくれたのを今でも覚えている。困ったらあの場所がある、と思えたことは、まめたろうとの向き合い方をずいぶん柔らかいものにしてくれたように思う。

 

働くことの対価としてでないと子どもを専門家に預けられない、働かないなら家族だけで3歳までの子育てをなんとか乗り越えなければならない。それが当たり前の社会だから「子育て罰」なんてひどい言葉も出てきてしまう。親が元気で子育てするためにも、子どもを柔らかい気持ちで見守っていける親であるためにも、子育てを親や家族だけに任せるというのは違う、と思う。