はるのねいろ

まめたろうとこまめの成長記録です。

その言葉の重み・意味(親業修行中)

自分で決めたい、自分でやりたい、という彼と、一方で、彼よりも少し先回りができてしまう(がゆえにしなくていい心配もする)私とで、何かとケンカをすることが増えてきた。そして、少し離れたところでこめさんが彼に話を聞き取る様子を何度か見る中で、どうやら私と彼の間では誤解があるようだ、ということに思い至った。

 

まだ語彙の少ない彼は、自分の知っている語彙を使って自分の意志を表明するため、実際の言葉の意味と、彼の使った意味合いには差があることがあるらしい。たとえば、「めいれいしないで」の「命令」は、おそらく「指示しないで」くらいの意味だったんだろうな、と今なら思える(初めて聞いた時は衝撃だったけれど)。それは、考えてみれば当たり前なのだが、そんな当たり前にようやく気づきつつある母ちゃんであった。

 

そして、それは逆でもいえる。私のいう言葉を、彼が「私が言うように」は受け取っていない可能性だ。言葉の意味が難しすぎたり(よく、こめさんに「難しい言葉を使いすぎといわれる)、あるいは言い方は丁寧でもこちらの下心(こうしてほしいな~)が見え見えの態度なら、そりゃダメだろう。

 

そもそも大人同士だって、言ったことが意図の通りの伝わらないことの方が多くて、「こうかな?どうかな?」とすり合わせながら共有していくのに、なぜ子育ての場面になると、「なんでわからないの!」になっちゃうんだろうなぁ、と、我ながら不思議に思う。いくつか仮説はあるけれども、「子どもは自分のもの」感覚が育ってしまっているから自分の思い通りにならないことにいら立ってしまうのではないか、あるいは「子どもは親の言うことを聞くもの」感覚が無意識にあるから怒れてしまうのではないか、あるいは、単に疲れているからすり合わせる余裕がないのか……。実感としては、「疲れていない」ときはだいたい話を聞こうと思えるため、今のところ最後の仮説が一番それらしいかなと思う。

 

さて、そんなやりとりをしつつの我々の親子関係だが、連絡帳に書くかどうかについての変遷がなかなか面白買ったのでメモしておく。

 

「先生に言えるから大丈夫だよ!」→「先生に言えるけど忘れるかもだからメモを入れておいてほしい」→「お母さんが心配ならしてもいいよ」

 

もう自分で言えるようになっていることを母ちゃんもわかってはいるのだけど、でももし忘れちゃったらなぁ、どうしようかなぁ、という葛藤が毎回あり笑、そのたび彼は自分でできるよ!と私に伝え安心させようとしてみたり、一方で母に信頼されていない(できないと思われている)と思ってみたり、自分でもできないかも?と思って対策を考えたりしている様子で、そして最終的にはなんと「お母さんがしたいならどうぞ」という境地に。笑。この、相手の希望を聞くという姿勢はこめさんが私にしているのを見ているからこそかな?と思ったりする。