はるのねいろ

まめたろうとこまめの成長記録です。

説明が足りないのは大人の方なのかもしれない(8歳&親業修行中)

ずっとわたしはまめたろうの言葉の発達が遅いんじゃないかと気にしてきた。彼の友達はみんなもっとしゃべる、すらすらしゃべる、難しい言葉も使っている。幼稚園でも小学校でも、面談のときは言葉が遅い気がする、といつも伝えていた。

 

先生たちからみるとそんなに遅いとは見えないようであり、コミュニケーションに難があるようにも見えないとも言われ続けてきた。確かに彼は、こちらの言うことはよく理解しており、こめさんとの会話もちゃっかり聞いていて、諸々のことを理解したりもしていた。発言する言葉は多くはないかもしれないけれど、理解はできている、とあうのが小学生になるまでの私の認識だ。

 

そして小学生になった。あんまりしゃべらないなぁ、と心配に思っていたのが嘘のようにしゃべりまくるようになった。しゃべりたいことが増えればしゃべるようになるもんなんだなぁ、それくらい彼の世界は広がっているんだなぁ、と思った。ずーっとずーっと喋り続けるので、「少し話しかけるのをやめてほしい」とお願いすることもあるほどだ。

 

一方で、コミュニケーションに難があるのかな?と思うこともしばしば。それは今でもときどき思うけれど、その中には発達の過程だと理解すればいいこともあるだろうし、彼の特性の部分もあるだろうし。

 

でも、特に私と彼のやりとりで思うのは、説明が足りないのは私の方なのでは、ということ。この前もこんなやりとりがあった。

 

雨の朝、まめたろうが傘を学校に忘れてきたので家にあるビニール傘を持っていくときのこと。

「お母さん、この傘どうやってさしたらいいの?」(いつもと違うのでわからない)

「(こまめを抱っこして傘なので余裕がない)がんばってやってみて!」

「どうやってさしたらいいのかって聞いてるんだよ!」

「だからがんばってって!」

結局このあと、彼は自力で開けられたのだけど、あとでこんなふうに言われた。

 

「かさがどうしたらさせるのか、そのやり方をきいているのに、がんばってっていうから、がんばってってやり方があるのかと思うし、がんばってってどういうことなのかわからなかった。」

 

確かに彼のいうとおりで、やりとりがチグハグだ。がんばってというのは気持ちの問題で、傘の開け方の説明にはなっていなかった。しかも、がんばったってわからなければできないことはできるようにならない。ごめんね、と彼にあやまった。

 

こんな感じのことが、私と彼の間で時々起こる。そのたび少し言い争い?になるのだけれど、彼がこうして、お母さんのどの言い方がどうわからなかったのか、を、丁寧に説明してくれるようになり、やりとりに難があるのはむしろ私の方では、と思うようになった。

 

説明が足りないのは、あるいは、まめたろうの話をちゃんと聞いてないのは、私の方なのかもしれない。なんでも子どものせいにしちゃいけない、子育ちと親育ちはセットだよなぁ、なんて考えた出来事だった。