はるのねいろ

まめたろうとこまめの成長記録です。

言葉や視点を補う(親業修行中)

我が家は平日は母子1人ずつの家で、かつ私もそんなにしゃべるほうではないため、まめたろうがおうちで言葉を聞く機会は、夫婦そろっているおうちや兄弟のいるおうち、祖父母もいるおうちと比べると少なかったのではないかと思う。言葉の発達は、家での親同士の会話などからも学ぶとは聞くし、まめたろうも祖父母宅に長く滞在すると言葉の獲得が一気に進む、ということが実際にあったため、それはそうなのだろうな、と感じている。

 

そういう親としての引け目もあってか、まめたろうに言葉で説明を求めることが多かったような気がする。説明をする習慣をつけることが、言葉の獲得につながるように思っていたのだと思う。ただ、この間、「どうしてそう思ったの」「どうしてそうしたの」だけだと不十分だということに気がついた。

 

まめたろうとしては説明しきったつもりなのに、「どうして」と問われるとき、彼はその前に言ったことと同じことを繰り返す。こちらが「何」を補足してほしいと思っているのか、「何」がわかっていないのかがまめたろう自身わからないため、「何」が伝え足りないのかがわからないから、彼の立場に立ってみれば、繰り返すしかないのは、考えてみれば当たり前のことだった。

 

そんなことに気づかされる機会があったので、「どうして」をやめてみた。「公園にいったときに「何を」持っていたの?」など、言葉を補足して説明を求める形にしてみた。そうすると、彼はすいすいと答えてくれた。そりゃそうだ…いままで、「どうして」だけ問われて、何回も応えているのに「それじゃわからない」だけ言われて、彼はきっと困ったり戸惑ったりしたことだろう…。

 

そしてこういう言い方にかえてみると、私のほうこそ彼に対して説明不足だった(わかるだろうと決めつけていた)ことにも改めて気がついた。当たり前だけど、わからないから何度も言葉を重ねながらやりとりするのがコミュニケーションだ。言葉が足りなかったのはまめたろうじゃなくて、私のほうだった。

 

同じく、最近彼とのやりとりでもうひとつはじめたのは、「視点を補う」ということ。「まめたろうがどう思ったのか」「お母さんはどう思ったと思うのか」ということを、言葉だけでやりとりしていると、どうしても彼の主観(=彼自身が思ったこと)になってしまうこともあり、ちょっとこめさんとも相談して少しだけ勉強をしてみて、絵や文を書きながら、その出来事について話してみる、ということをしてみるようにした。これがとても彼の整理にとって良かったようで、そして実は私のほうも整理できることをつくづく実感。頭だけで、口だけでのやりとりに加えて「書く」ことで客観視できるって本当なんだなぁ、と、改めて思った。