はるのねいろ

まめたろうとこまめの成長記録です。

「価値ある生活」について考える(親業修行中)

大学生のころ、教育について学びだしてからずっと疑問に思っていて、未だにひっかかる言葉が、「価値ある生活」とか「価値ある体験」というような言葉だ。最近の子どもは生活体験が乏しい…、そのため学校では価値ある生活や価値ある体験をさせることが大事…という風に語られることが多いように思う。

 

でも、その生活や体験に「価値がある」と判断しているのは誰なのだろう。多分それは大人だけれども、では、「価値のない生活」「価値のない体験」って何なんだろう。それぞれの生活や体験の「価値」は、その生活や体験当事者それぞれで考えればいいことなんじゃないのかなぁ…。

 

どちらかというと、生活や体験に「価値があるかどうか」が問題なのではなくて、その「生活や体験」を自分のこととして引き受けて考えられているかどうか、ということが問われるべきなのではないか…と思う。だから、「価値のある生活や体験」という表現ではなくて、「その生活や体験をどうとらえているか」ということを問い直す機会が教育の中にあるといいな、それこそ教育じゃないかな、と思う。その結果、その生活や体験の価値を、それぞれが考えていくのではないかと。価値、という言葉を使うと大袈裟かもしれない。要は、自分はどういうふうな暮らしが好きか、どう暮らしたいか、が考えられるといいのかな、と思うのだ。

 

たとえば、便利家電がある生活。このことを自分のこととして、どう考えるか、という問題。包丁を使わないで、野菜を切らないで、洗い物をしないでご飯が作れるようになった、ということをどう考えるか。包丁の使い方、野菜の切り方、洗い物の仕方を学べなくなった、その結果五感の発達の機会が減った、とも考えられる。一方で、人によっては苦手な料理ができるようになったとか、食事のバリエーションが増えたとかだって考えられる。あるいは仕事で忙しいけれども家事を短縮できて家族で話す時間が増えた、趣味に時間がとれるようになった、と考えることもできそうだ。どこに価値を見出すかはやっぱり人によって違うのだと思う。

 

多分わたしがずっと引っかかっているのは、最初に書いた通り、「価値ある生活」の価値判断をしているのが大人で、それを子どもに押し付けているように感じる点なんだと思う。何が大事かなんて、他の人には決められないことだし、決めつけるべきことではやっぱりない。

 

とは言ってみたものの、私も子どもに価値のあるなしを押し付けている場面もあるなぁと思うし、子どもが子どもだけでは触れられない生活や経験を与えることは、大事な役目な気もする。それと押し付けはどう違うんだろう、そんなことをぐるぐると考えながら、いつか言語化したいと思っている。